ことばのおと

落ちてこぼれた一人がひとり。拾った音を煮詰めたら、なにが書けるんだろう。

津波で亡くなった祖母のこと、そののちのこと。

先の東日本大震災のことを覚えているうちに記録しておきたいと思って、だいぶ時間が経ってしまいました。

 

もう6年。まだ6年、ではなく、もう6年、と言えるくらいには、自分の中で時間が経過した気がします。

 

 

津波で祖母が亡くなったことを知るまでの私のこと。

その日、福島県いわき市豊間海岸近くに住んでいた母方の祖母の家は津波の被害を受けた。

 

当時の私は学生で、地震が起きた時刻(14時46分ころ)東京都駒込で借りていたアパートにいた。驚きと不安で外に出てみると、何もなかったかのように人が歩いていて、落ち着かなかった。

 

駒込駅まで歩いて行ってみると、人でごった返している。やっぱり大変なことが起きたんだときちんと認識できたことは、ある意味で私をほっとさせた。

 

その時はどこで地震が起きたかなんて、全くあたまになく、私は夕方行く予定だった場所へ公衆電話からキャンセルの電話を入れた。15時30分くらいだったか。携帯電話はすでにほぼ繋がらなかった。

 

その後、母から無事かどうか連絡があったこと、商店街でたい焼きを買って食べたこと、他の客人や店の人と話を交わしたことを覚えている。今の夫のはやおからも、電話かメッセージかで連絡があった・・・・はず。その日の夜のことは、プツリと糸が切れたように覚えていない。福島の実家の方が大変なことになっていると知ったのは、夕方から夜にかけての時間帯だったと思う。

 

翌日3月12日18時30分、はやおが連絡をくれた。豊間の避難先の一つとなっていた介護施設「望洋荘」に、避難した人の名前がツイッターにアップされており、そのひとつが祖母の名前ではないかという。その時はああ本当によかったと思い、父と母に即メッセージしたけど、それは同性同名の別の方だったと、後日わかった。

 

 

私の携帯電話には、駒込のアパートでひとり、祖母の陰膳を供えた3月16日付けの写真が残っているから、少なくとも震災から6日目には亡くなったことが私にも伝わっている。母と父に伝える余裕はなかったのか、連絡は当時高校生の弟からだった。

 

無事に祖母の火葬まで行えることになったと聞き、行くかどうか迷ったが、こちら(いわき)に来たら東京にいつ戻れるかわからないし、来なくていいと父から言われ、行かなかった。

 

4月3日、東京からいわきへ。祖母の家に向かう。

豊間の祖母の家に行ったのは、東京いわき間の高速バスが復活した翌月の4月3日。デジカメを持っていなかったので、ガラケーのカメラで祖母の家や付近の風景を撮る。

 

下の写真は祖母の家の居間にあった時計。天井まで津波が届いて、時計も波をかぶった。

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時計は、津波が着た時間で止まっていると思ったら、その後また動いてこの時間で止まったと叔父から聞いた。叔父は祖母と暮らしていたが、この日は仕事にでかけており、家を留守にしていた。

 

祖母の遺体は玄関のそばから見つかり、身体の上にはこたつの毛布のようなものがかかっていたらしい。あまり日が経たずに見つかってきれいな状態だったこともあり、津波で亡くなったか、地震に驚いての心臓発作だったか、死因がわからないという。祖母につながることであればなんでも知りたかったけど、今もわからないまま。

 

私が訪れた4月3日は、遺体があった玄関近くから、祖母と写っている私の成人式の写真が見つかり、最期は友美といたのねと、母は泣いていた。写真は今も大切にとってある。

 

家の中は海水が運んだ砂と家財がまみれてぐちゃぐちゃ、外から津波で押し寄せたものも多少はあったか、とにかくごったがえしていた。幸い、丈夫なつくりだったのか家の骨組みは残っていて、うちは玄関から中に入ることができた(まわりにはぺちゃんこになり、木材の山と化した家もあった)。しかし、それもやっと入れるように叔父や父、母が玄関前の荷物を片付けたに違いなかった。

 

 

長年親しんだ居間ーーここで出前の寿司やラーメンを食べたり、テレビを見たり、甘酒を飲んだりしたーーは足の踏場もなかった。隣の部屋も台所も、同じような有り様だったけど、小さい時に遊んだオレンジ色のバランスボールは、前と変わらないみたいに、てんとそこにあったのが印象的だった。台所からは、まだ袋から開けてない新品のマヨネーズを見つけて、もったいないから持って帰ろうとして母に怒られた。その日東京から着いたばかりの私には、この光景を見てもまだ現実感が湧かなかったのだと思う。

 

 

祖母の向かいの家のおばさんの土下座。

祖母の家の向かいのおばさんちは、みな助かったと聞いた。本当によかった。うにの貝焼きやアワビを、私が子どもの時から食べられたのは、素潜りをしていたおばさんちのおかげだ。祖母の家からは、海に行く近道として家の前をよく通らせてもらっていた。

 

震災から後日、祖母を助けられなくてごめんなさいと土下座されたと、叔父か母から聞いた。こうして書いていると、思い出してやりきれない。もう豊間に行っても、近所の人と顔を合わすことがないのが本当に切ない。

 

 

昔ほしかった人形も、津波を経験してそこにいた。

4月3日、私が小学生か中学生の頃、祖母が平のトイザらスで買った人形を見つけた。居間の近くに泥だらけで転がっており、持ち帰って洗ってきれいにした。昔、その人形がほしいと駄々をこねた時があったことを思い出す。こんなかたちで自分の元にやってくるとは思わなかったから、複雑な気持ちだった。

 

パンダの人形。長い間家に飾っていたけど、今年の夏にふと思い立ち、神社に納めた。 

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あるべき場所に戻すというか、元の持ち主のところに帰すような、そんな気持ちで見送った。6年間、私の気持ちが落ち着くところに落ち着くまで、一緒にいてくれたのかもしれないとも思う。ありがとうと行ってらっしゃいを、最後に言ってお別れした。