ことばのおと

落ちてこぼれた一人がひとり。拾った音を煮詰めたら、なにが書けるんだろう。

責任の気分を負わない名前

以前、自分の名前に対してこんな記事を書いた。

sagawatomomi.hatenablog.com

 

自分の苗字「佐川」。去年結婚して、戸籍上は「鈴木」に変わった。しっくりこなかったので、しばらくは旧姓の佐川を使い続け、その後は、名前の上に何かしらくっついていれば佐川でも鈴木でもどっちでもいいかと考えたものの(ここまでが旧記事のこと)。

 

なんだか最近は、どうってことないところでは、鈴木と名乗っているようなのだ。

 

それは、新しい仕事先や、お店の予約を取る時、親族や知人に何かを送る時、あるいは公的機関、などであったりする。こういう時は、まあ鈴木でいいかと思って、鈴木ですと名乗る(そしてときどき、誰になんと名乗ったか分からなくなり、混乱する)。

 

穏便な名前として、鈴木を使っているように思う。自分の存在を懸けて、なにかを主張するほどでもないと思ったところや、そうせざるをえないところは、まあ鈴木でいいかと。世を忍ぶ、仮の名前みたいな感じで使っているかもしれない。

 

今年の秋ころも、仕事先で「戸籍上は鈴木ですが、佐川って呼んでいただけませんか?」と言ったら、不思議というか変な顔をされたので、とりあえずは「鈴木さん」に収まっている。

 

自分で鈴木と名乗ったり、相手からそう呼ばれたりする時、あ、私のことだなと認識はできるけど、どこか薄い膜が張っている感じがする。「佐川」として言われるより、少しだけ気楽で、責任の気分が薄くて、私の真芯に届かないところで止まるような、そんな膜。

 

佐川姓は福島と茨城に多いようで、私も福島で生まれて、そこで育ててもらった。佐川友美さんと言われると、その所在をビシっとつきとめられる感じがして、背筋が伸びる。お里が知れるなと。そこには東北とか、福島とか、いわきとか、土地がのっかっている。

 

苗字。苗(なえ)の字。鈴木と呼ばれると、苗が抜けているような所在不明感があって、それが責任の気分を負わない感じにつながっていると思う。どこか、土地から切り離されてしまったような。夫婦別姓が選べるようになったら、佐川に戻すかもしれないなと今は思う。夫はやおにも意見を求めたら、別にいいんじゃない?とのことだった。 

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(2016.5.2 京都宇治、まるネコ堂でモヒートをつくっているところ)