ことばのおと 〜さがちゃんの生きてる記録

自分だけの仕事を探して農業したり、NPO勤めたりしたけどなにも見つからず。だったら、なんにもなれないまま生きてみようかと。

その人が満足して生きたかどうかは、死に方と関係なかった

 

うちのばーちゃん東日本の震災の津波で死んじゃって、

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私は7年間ずーっと「死に方」ばっかりに目を向けてて。

津波で」死んだってことに目を向けてばっかりで。

 

ばーちゃん最期なにを思ったかな、苦しかったかなと思ってたけど、

最近すこし私の考えも変わってきた。

 

 

ばーちゃんが満足して生きたかどうかは、

死に方関係ないよな〜・・・・って。

 

 

 

うちのばーちゃんは、 死に方たまたま津波だっただけで。

そりゃ、ショックだったけど。

 

 

ばーちゃん死んだだけじゃなくて、

家から何からなくなって、

海のかたちまで変わっちゃって(砂浜どっさりなくなった)。

 

そこにあったばーちゃんとの思い出も壊れたみたいで、

そりゃショックだったけど・・・。

 

 

でも私が悲しいのと、

ばーちゃんが満足して生きたかどうかは別だよなって。

 

 

この前恐山行ったとき、

死んだばーちゃんがなんか元気そうにしてるのを感じた。

sagawatomomi.hatenablog.com

 

ばーちゃん、死に顔が苦しそうだったから、

ずっと辛かった。死んだとき苦しかったかもしれんと。

 

 

でも少なくとも、

ずーっと苦しいまんまじゃなかった、ってことを恐山で知った。

 

 

人生の最期が津波ってのは、

ほんとにマジでびっくり、予想外だったかもしれんけど、

彼岸で落ち着いてから「人生満足だった」となってるかなあ。

 

 

そうでなかったら、

あんなに元気そうに、私の心の中に現れてくれるもんかなあ?

 

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【たぶん15年くらいくらい前に撮った、在りし日のばーちゃん。】

 

 

津波で死んじゃったけど、

ばーちゃんが満足して生きたかどうかとそれって関係なかったね。

 

 

 

 

くにちゃんが今年の6月に話してたことを、最近もっかい聴いていた。

ほんとによかったから、また文字起こしした。

 

 

四国・土佐では人が死んだことを「みてた」と言うらしい。

それは「命が満ちる」ということだと聞いた。

 

今ならよくわかる気がする。

ただただ死んで、自分の働きを全うしたばーちゃん。

満ちたってほかに、なんも言葉ない。

 

 

 

 

 

2018年6月7日 @東京

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くにちゃん

あの、Gさんていう男にね、教わったんだけど、土佐弁ではね、人が死んでしまったことを、となりのおじさんが去年みてた、みてたよっていうんだっけ?みてたっちゃっていうんだっけ?

  

R(高知出身の方)

みてたとー。亡くなったそうですっていう。

 

くにちゃん

ふんふん。その「みてた」というのは、亡くなった、死んだという意味でつかってるっていうの。み、て、い、る、っていう。みてたという言葉が、死んだという言葉で。で、Hっていう広島から来た人が、広島では醤油ぜんぶ使い切ったら、もうみてたよー、新しいの持ってきてっていう。もうみたよーっていう。つまり、終わってしまってなくなることを「みた」っていう言い方してるわけ。これはおもしろい、不思議な言い方すると思って考えてみたんだが。醤油がぜんぶ最後までなくなる。ぼくらの今の常識の考え方は、なくなってゼロになるということだ。ところが、広島とかね、それから土佐のみてたの使い方では、最後までいったってことは、満ちあふれたってことなんだって、働きが。その人の醤油としての働きが、最後まで満ちあふれて、いっぱいいっぱいになった、という感覚だというの。だから、みてたっていうのは、満ちた。満ちたというのは、その人の命が満ちたっていうことで。いっぱいいっぱい豊かに全うした、満了したっていう言い方したかな。もう満々と、満了した。琵琶湖の湖みたいにね。もう満タンに満了した、満ちあふれたことをみてたと言って、それは死んだことを指すというの。そんなとこにおるから、龍馬たちカンカンカンカン死んでいけるんだと思う。思う。ほんとにそう思う。ぜんぜん違った価値観だね。ぼく自身はその価値観、そのものの言葉にぼくはもう、ちょっと感動した。・・・だとすると、ぼくらは死ぬという言葉をなくなるという意味でどっかで教わったんだな、それな。醤油でさえね、なくなるというのは満ちあふれることだ。みてた。・・・っていうものの見方でいくと、死ぬことはぼくらみたいに怖いものではなくなって、死ぬってのは満ち満ちることですから。そっちに向かって、例えばGちゃんとかね、自分のいきたい方向へ向かって、その方向へ寿命がどんどん減っていくっていうことは、ぜんぜん、心からすっきりと満ちていくこと、というわけだね。これから満ちていこう。成長じゃなくて、お互い満ちていこうじゃないか。みていこうじゃないかっていう言い方になるわけだ。

 

R

人生を満たすから「みてた」って言うって、Gさんの知り合いのお年寄りの方は言ったって言ってましたね。

 

くにちゃん

人生はね、満たす。これで消えて死んでいくっていうのと、満ちて、いわゆる自己実現っていうのが、完全にひとつの言葉の中にまとまってるんだね。これがぼく日本人の強さだし、土佐の人たちの強さだとぼくは思うね。死ぬことに関するそもそもの哲学が違ってるんだと思うね。なんで違うかっていうとまだ龍馬たちが生きているってことがものすごい証拠です。死者が死んでない。なので死の国と、四国というんだなというのはもう納得です。・・・生きてる人より、死んでる人の方がね印象ある、だから。おもしろかったね。あの、山の中に登って行って、Rがね連れてきたおじさんなんかは「あんたらも龍馬で来たのか」ってぼくらをね、怒るんだよ。あんたらも坂本龍馬かいって。

 

R

「龍馬くらいしか知らんやろー」って。笑 ふふふ。

 

くにちゃん

吉村虎太郎だ!とかって言うわけ。龍馬より先に脱藩したんだとかって言って。笑 その土地から出た、若くしてね、天誅組というのをつくって。奈良で討ち死にして。ほんとに華々しく戦死した人のこと、本気で怒ってるの、その人。辿ってるわね。本人に成り代わって怒ってるからね。土地ぜんぶあげて死者と一緒に生きてる。ていうか、死者の方がもっと生きてる。予算いっぱい取って、死者の方が。笑

 

R

死者の家とかね、生家とか建ててるからね。笑

 

くにちゃん

ほんとに。笑・・・またここで問いが出てきますよ。死者とはなんなのか。本気でここはね、探求してね。なぜかというと俺たちが死者にもうすぐなるからね。ここはほんとに、勉強という言葉があるなら、勉強なさるべきだと思います。